Reconsideration of the History
92.それでも「北方領土」は日本の領土 北方領土考-其の弐-(2001.8.7)

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回のコラム91.「北方領土」は返ってこない!? 北方領土考-其の壹-で、今のままでは「北方領土」は決して返ってこない!!と書きました。とは言っても、「北方領土」が「日本の領土」である事に何ら変わりはありません。と言う訳で、今回はその歴史を通して、いかに「北方領土」が「日本の領土」であるかについて書いてみたいと思います。

北方領土関連地図
北方領土関連地図
(クリックすると拡大詳細図が別ウィンドウで見られます)

「北方領土」が歴史の表舞台に登場したのは、意外にも大阪夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川幕府が天下を平定した元和元(1615)年に遡ります。蝦夷地(えぞち) ── 現在の北海道を治めていた松前藩の記録『新羅之記録』に、元和元年、メナシ地方(東蝦夷)に住んでいたアイヌ人達が海獺(ラッコ)の皮を松前藩主に貢物(みつぎもの)として贈り、松前藩がこれを幕府に献上した旨が記されています。ちなみに、海獺は北海道には生息していません。つまり、アイヌ人達が貢物として贈った海獺は、千島で捕獲されたと考えられ、この時代、既に千島に住むアイヌ人達との間に交易が確立されていたと考えられるのです。

保元(1644)年、幕府は全国諸藩に対して、国(藩)毎に自領の地図を作成提出する様に命じました。そして、提出された諸藩の地図を基に作成されたものが『正保御国絵図』(しょうほう-ごこくえず)と言われる全日本地図なのですが、この地図には、知床(しれとこ)半島・納沙布(のさっぷ)岬の東北に大小39の島嶼が記載されており、内34の島には「くなしり」(国後)・「えとろほ」(えとろふ=択捉)・「うるふ」(うるっぷ=得撫)等の名が付けられていたのです。又、正徳5(1715)年には、松前藩から幕府に対して、「蝦夷本島・千島列島・カムチャツカ半島・樺太(サハリン)を、松前藩が統治している」旨の上申書が提出されており、松前藩 ── ひいては、当時の日本が、彼の地を「自国領」であると認識していた事は疑うべきも無い訳です。

正保御国絵図
正保御国絵図
(地図上方から樺太・蝦夷地・青森、右上には千島列島)

は、一方のロシア側がどう認識していたかと言う事ですが、少なく共、択捉島以南 ── 現在、「北方領土」と呼ばれる南千島については、「日本領」である事を認めていました。例えば、正徳元(1711)年、ロシアは、千島列島最北端の占守(しゅむしゅ)島・幌筵(ぱらむしる)島に侵入したのを皮切りに、千島列島を島伝いに南下して来ましたが、得撫(うるっぷ)島を越えて、南隣の択捉島へは侵入して来ませんでした。何故かと言えば、当時、日本側が択捉島を含む「北方領土」に番所を置き、守備兵を駐屯させていた事、寛政10(1798)年、幕府が近藤重蔵を択捉島に派遣し、「大日本恵登呂府」(恵登呂府=えとろふ)の標注を設置させた事等 ── つまり、日本による実効支配の現実を認めていたからなのです。

「北方領土」関連年表
(日露通好条約(1855)による初期国境確定まで)
年次 事績
1615(元和元)年 メナシ地方(東蝦夷)に住むアイヌ人、松前藩にラッコの皮を貢物として送り、松前藩、これを幕府に献上(松前藩『新羅之記録』)
1635(寛永12)年 松前藩、蝦夷地(えぞち:現・北海道)を探検し、国後・択捉を含む千島列島の地図を作成
1643(寛永20)年 オランダ船長・ド=フリース、北太平洋の金銀島探索の途で、得撫(うるっぷ)・択捉二島を発見
1644(正保元)年 松前藩、幕命により自藩領の地図(正保御国絵図)を作成し、幕府に献上
1700(元禄13)年 松前藩、幕命により千島・樺太を含む蝦夷全図と郷帳(くるむせ)を作成
1711(正徳元)年 ロシア人、千島列島最北端の占守(しゅむしゅ)・幌筵(ぱらむしる)二島を襲撃
1713(正徳3)年 ロシア人、温祢古丹(おんねこたん)島を襲撃
1715(正徳5)年 松前藩主、幕府に対し、「蝦夷本島・千島列島・カムチャツカ半島・樺太は松前藩領で、自分が統治している」旨の上申書を提出
1731(享保16)年 国後・択捉の首長等、松前藩主を訪ね、献上品を贈る
1754(宝暦4)年 松前藩、国後番所を開設し、択捉・得撫までの交易場所とする
1766(明和3)年 ロシア人・イヴァン=チョールヌイ、南千島(現・北方領土)調査途上で、初めて択捉島に渡来
1768(明和5)年 ロシア人、得撫島で越年ラッコ猟を始め、アイヌ人と衝突、ロシア人を島から駆逐
1711(明和8)年 ポーランド人捕虜、カムチャツカを脱走、日本に寄港し、ロシアの南下を警告
1778(安永7)年 得撫島のロシア人・イヴァン=オチエレデン、革船で根室ノッカマップに来航、交易を求めるも日本側拒絶
1779(安永8)年 前年に引き続き、イヴァン=オチエレデン、交易を求めて来航するも日本側再び拒絶
イギリス軍艦、千島列島を実測
1785(天明5)年 田沼意次、蝦夷地巡検使を派遣
1786(天明6)年 最上徳内、択捉・得撫二島を探検。東蝦夷地に38番所の請負場所を数える
1789(寛政元)年 国後土着民、反乱を起こすも、松前藩、厚岸(あっけし)・国後の首長等の協力で鎮圧(寛政蝦夷の騒乱)
1791(寛政3)年 最上徳内、幕命により、択捉・得撫二島を調査
1792(寛政4)年 アダム=ラクスマン、ロシア女帝エカテリーナ2世の命により、根室に来航、通商を要求
1798(寛政10)年 近藤重蔵、択捉島に渡り、同島丹根萌に「大日本恵登呂府」の標注を設置
1799(寛政11)年 幕府、東蝦夷地を直轄、駅逓を設置し守備兵を配置
高田屋嘉兵衛、択捉航路を開設。近藤重蔵、国後島へ渡る
1800(寛政12)年 幕府、近藤重蔵・高田屋嘉兵衛等を択捉島に派遣、17の漁場を開くと共に行政府を設置して本土と一体化
1801(享和元)年 幕府、得撫島に「天長地久大日本属島」の標注を設置、ロシア人に退去を命じ、択捉島に守備兵を配置
1804(文化元)年 ロシア皇帝アレクサンドル1世の使節・レザノフ、長崎に来航し、通商を要求
1805(文化2)年 得撫島のロシア人が退去
1807(文化4)年 ロシア船2隻、択捉島を襲撃
1810(文化7)年 高田屋嘉兵衛、択捉番所請負人となる
1811(文化8)年 国後島に来航したロシア軍艦ディアナ号の艦長・ゴローニンを捕らえ、松前に抑留
1812(文化9)年 高田屋嘉兵衛、国後島沖海上でロシア軍艦に捕らえられ、カムチャツカに抑留
1813(文化10)年 高田屋嘉兵衛・ゴローニン交換釈放
1814(文化11)年 幕府若年寄・植村正長、日露国境を択捉島以南・新知(しむしり)島以北とし、得撫島を緩衝地帯とする旨の下知状を出す
1821(文政4)年 幕府、東西蝦夷地を松前藩に還付し、松前奉行を廃止
ロシア皇帝アレクサンドル1世、得撫島以北は露米会社の独占経営地域とする勅命を下す
1836(天保7)年 露米会社船、日本人漂流民4人を送還
1843(天保14)年 露米会社船、越中漂流民送還の為、来航し通商を要求
1845(弘化2)年 露米会社船、択捉島に来航し交易を要求
1853(嘉永6)年 ロシア使節プチャーチン提督、長崎に来航、長崎奉行に国書を奉呈
1855(安政元)年 日露通好条約(下田条約)締結。日露国境を択捉・得撫島間とし、樺太には国境を設けず、従来通り両国民の雑居とする
1858(安政5)年 日露修好通商条約を締結し、箱館(現・函館)にロシア領事館を設置

て、この様な経緯を辿(たど)ってきた日露両国の国境ですが、これらはあくまでも「暗黙の了解」に基づくもので、正式な国境は確定されてはいませんでした。何故かと言えば、鎖国体制下の日本とロシアの間には、正式な国交関係が無かったからです。しかし、そうは言っても、「暗黙の了解」はあくまでも「暗黙の了解」でしか無い訳で、ゴローニン事件に伴う両国当局の接触や、北方海域における通商・漁業紛争等から、国境問題を曖昧にしておけなくなった日露両国は、国境確定交渉を始めました。そして、安政元(1855)年、『日露通好条約』が締結され、日露両国の国境は択捉島以南(南千島)が日本領、得撫島以北(北千島)がロシア領として確定されたのです。ちなみに、樺太は従来通り国境を定めず、両国民雑居の地とされました。

『日露通交条約』(1855)における日露国境
『日露通交条約』(1855)における日露国境

治8(1875)年、日露両国は、『千島・樺太交換条約』を新たに締結しました。この条約では、日本が国境が未確定だった樺太全島に対する領有権を放棄する代わりに、ロシア領とされていた得撫島以北の「千島列島」 ── いわゆる北千島を譲渡されました。ちなみに、この条約では、日本がロシアから譲渡された「千島列島」について島名が一つ一つ列挙されていますが、それらは得撫島以北の18島(北千島)であって、択捉島以南の「北方領土」(南千島)は含まれていませんでした。

『千島・樺太交換条約』(1875)における日露国境
『千島・樺太交換条約』(1875)における日露国境

の後、日露両国は、朝鮮半島や満州の権益を巡って関係が悪化し、明治37(1904)年、遂に両国は戦争に突入しました。いわゆる「日露戦争」(1904-1905)です。戦争は、当時、「世界最強」と謳(うた)われたロシアのバルチック艦隊を日本の連合艦隊が撃滅した事で雌雄は決しました。しかし、日本にこれ以上戦争を継続するだけの余力が最早残っていなかった事と、ロシアにも国内の反体制勢力が急速に台頭した事等によって、両国共に戦争継続どころではなくなり、明治38(1905)年、米国大統領セオドア・ローズヴェルトの仲介で、米国ポーツマスで講和条約が締結されました。これが、『ポーツマス条約』(日露講和条約)と呼ばれるもので、日本は「戦時賠償」として、従来の領土(千島全島)に加え、北緯50度以南の樺太 ── いわゆる「南樺太」を獲得したのです。そして、いよいよ時代は昭和を迎えます。

『ポーツマス条約』(1905)における日露国境
『ポーツマス条約』(1905)における日露国境

和20(1945)年8月15日、日本は『ポツダム宣言』を受諾し、連合国に対して降伏。ここに4年に及んだ「大東亜戦争」(太平洋戦争)は終結しました。終戦から3日後の8月18日、ソ連軍がカムチャツカ半島を越えて、千島列島に侵攻してきた事は、前回のコラム91.「北方領土」は返ってこない!? 北方領土考-其の壹-で書いた通りです。このソ連軍の侵攻によって、南樺太・千島全島が占領されたのです。(何とこの時、ソ連軍は余勢を駆って、北海道から北日本まで占領する予定だった!!) その後、日本は連合国軍総司令部(GHQ)による占領支配を受けましたが、昭和26(1951)年9月8日、サンフランシスコ講和会議に出席した日本全権の吉田茂・首相が、『サンフランシスコ平和条約』に調印。ここに日本は国際社会に正式に復帰しました。そして、本条約第二条(c)(以下に記載)

サンフランシスコ平和条約(抜粋)

第二条【領土権の放棄】
  1. 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

に基づき、日本は、千島列島と南樺太に対する領有権を放棄しました。しかし、ここで言う「千島列島」とは、『千島・樺太交換条約』によって獲得した「千島列島」 ── いわゆる「北千島」の事であって、決して、現在、「北方領土」と呼ばれている「南千島」は含まれていないのです。

『サンフランシスコ平和条約』(1951)における日本の領土
『サンフランシスコ平和条約』(1951)における日本の領土

ちなみに、ロシア(及び旧ソ連)は、『サンフランシスコ平和条約』における、日本の千島列島・南樺太の放棄と、『ヤルタ秘密協定』における以下の条項

ヤルタ秘密協定(抜粋)

  1. 1904年の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシア国の旧権利は、次のように回復される。
  2. 樺太の南部及びこれに隣接するすべての島を、ソヴィエト連邦に返還する。
  3. 千島列島は、ソヴィエト連邦に引渡す。

を楯に、千島列島(ロシア側の主張では「北方領土」も含まれると言う)と南樺太の領有を正当化しています。しかし、『サンフランシスコ平和条約』に旧ソ連(ロシア)が調印していない事と、日本が何ら与(あずか)り知らない所で決められた『ヤルタ秘密協定』に、「国際法」としての拘束力が無い事から、ロシアに「北方領土」を領有する何らの正当性も無い事は明白です。以上見てきた様に、歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島の、いわゆる「北方領土」は、歴史的経緯からも、国際法の見地からも、「日本の領土」である事は疑うべくも無い事実なのです。

   余談(つれづれ)

後、『サンフランシスコ平和条約』に基づき、日本が領有権を放棄した千島列島(北千島)と南樺太。そして現在、それらを領有しているロシア(旧ソ連)。しかし、『サンフランシスコ平和条約』には、日本による「領有権の放棄」は明記されているものの、旧ソ連(現・ロシア)への「領有権の移管」については只の一言も明記されていないのです。(つまり、新たな「所有者」は決められていない事になる) 一方、旧ソ連が「領有の根拠」とした『ヤルタ秘密協定』ですが、これも、あくまでも「秘密協定」であって、国際法に照らせば何らの正当性もありません。そう考えると、仲間内(米英ソ)の勝手な打ち合わせ(ヤルタ会談)で取り決めた「内輪の約束」を「領有の根拠」としている訳で、ロシア(旧ソ連)は、「北方領土」(南千島)だけで無く、千島列島(北千島)や南樺太をも不法占拠していると言えるのです。

(了)


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