Reconsideration of the History
93.「ヤルタ秘密協定」は「北方領土」領有の根拠となり得ない 北方領土考-其の参-(2001.9.8)

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和26(1951)年9月8日、日本は『サンフランシスコ平和条約』に調印し、国際社会への復帰を果たしました。そして、同条約に基づき、日本は、千島列島(ここでは「北千島」を指す。以下、「北千島」と表記)・南樺太(北緯50度以南の樺太)及び、朝鮮半島・台湾・新南諸島(南沙諸島)・西沙諸島・南洋群島(サイパンやパラオ等の太平洋島嶼群)の領有権を全て放棄しました。この内、「北方領土」を含む千島列島・南樺太を含む樺太全島は、現在、ロシア(旧ソ連)が占有しています。しかし、『サンフランシスコ平和条約』には、日本による「領有権の放棄」は明記されているものの、旧ソ連(現・ロシア 以下略)への「領有権の移管」については只の一言も明記されていないのです。(つまり、新たな「所有者」は決められていない事になる) そして、旧ソ連が「北方領土」領有の根拠としているものに、『ヤルタ秘密協定』があります。そこで、今回は、旧ソ連の主張について、その問題点を明らかにし、いかに旧ソ連が主張する「領有の根拠」が不当なものであるかについて、書いてみたいと思います。

は大航海時代。日の出の勢いで領土を拡大していたイスパニア(スペイン)・ポルトガル両国は、領有権争い解決の為、1493(明応2)年、ローマ教皇アレクサンデル6世に仲介を求めました。この時、教皇は『大教書』(インテル・ケテラ)を発布し、両国の「分界線」(リネア-デ-デマルカシオン)を確定しました。しかし、その後も、相次ぐ新領土の「発見」や、ドル箱だった香辛料の原産地、モルッカ(香料)諸島への思惑も絡み合い、幾度と無く両国の「分界線」が変更され、1529(享禄2)年、財政難にあったイスパニアがモルッカ諸島に対する領有権をポルトガルに売却、新たな「分界線」を定めた『バリャドリード条約』が締結されました。そして、同条約による「分界線」が、当時、「黄金の国・ジパング」としてヨーロッパに紹介されていた日本の一部を通過していた為、日本に対する「領有権」(帰属)を巡って、再び両国に争いが起こりました。つまり、

ジパングは、イスパニア・ポルトガルどちらの「領土」か?

と言う訳です。その後、両国は、互いに宣教師の派遣を通して、戦国日本を舞台に熾烈な勢力争いを演じる事となったのです。それにしても、なぜ、「北方領土」問題でこの様な話を持ち出したのか? 皆さんの中には怪訝(けげん)に思われる方もおありでしょう。その理由はもう少し後で明らかにする事として、話を『ヤルタ秘密協定』に戻したいと思います。

ヤルタ会談
▲ヤルタに集う米英ソ三国首脳
(左からチャーチル・英国首相、ローズヴェルト・米国大統領、スターリン・ソ連首相)

『ヤルタ秘密協定』(以下、単に『秘密協定』と略)米英ソ三国で取り交わされたこの『秘密協定』には、旧ソ連が対日参戦する見返りとして、南樺太と千島列島を引き渡す旨の条項が明記されていました。そして、旧ソ連は、この『秘密協定』に則って、終戦直前の昭和20(1945)年8月8日、『日ソ中立条約』を一方的に破棄し日本に宣戦布告、翌9日から対日戦を開始したのです。では、旧ソ連が「北方領土」領有の根拠としている『秘密協定』に正当性があるのでしょうか? 結論から言えば、『秘密協定』はあくまでも「秘密協定」であって、国際法に照らせば何らの正当性もありません。なぜなら、仲間内(米英ソ)の勝手な談合(ヤルタ会談)で取り決めた「内輪の約束」だからです。又、もう一方の「当事者」である日本が、何ら与(あずか)り知らぬ『秘密協定』に拘束される言われも全くありません。

て、ここで、前述のイスパニア・ポルトガル両国間に締結された『バリャドリード条約』に戻します。同条約による両国の「分界線」が日本の一部を通過する事で、両国が日本の帰属を巡って争ったと書きました。では、その後、両国は日本に対して、「日本に対する領有権」を主張してきたでしょうか? 答えはノーです。イスパニア・ポルトガル両国共に、「『バリャドリード条約』により、日本は我が国に帰属する」等とは、一度たりとも主張してきてはいません。まあ、それは当然でしょう。当時の日本がその様な条約によって、自国の領有権が他国に争われていた事等、露とも知らなかった訳ですから。この『バリャドリード条約』を『秘密協定』に置き換えてみると、皆さんにも理解頂けると思います。それでも、まだ、納得がいかない方もおありでしょう。そこで話を、更に身近な例に置き換えて見る事にしましょう。

故郷(ふるさと)の実家を離れ一家で転勤していた家族が、ご主人の定年を機に10年ぶりに故郷へと帰りました。そこで、ご主人は我が目を疑いました。なんと実家と共に持っていた畑(土地)がご主人に無断で近所の家に使われていたのです。当然ながら、ご主人はその家に行って、「あそこは、うちの土地だから返せ!!」と言いました。すると、先方は、「あそこはもう10年近く、うちで耕作している。今更返せと言われても困る。それに、この事は、町内会でも承知している」と返答してきたのです・・・。
如何でしょう? あなたが実際に、この当事者だったらどうするでしょうか? 当然ながら、意地でも「返せ!!」と言う筈です。なぜなら、自分の土地なのですから。それに、自分がいない間に勝手に町内会が決めた事に従えますか? ましてや、自分の土地の事です。この「自分」を日本に、「町内会」を『秘密協定』の当事者である米英ソに、そして、「自分の土地」を「北方領土」に置き換えてみれば・・・これなら、どんな方でも理解頂ける筈です。民事でこの様な事が起きたとしたら、相手の主張は、まず100%通りません。それが当然です。その本来なら「通らない」筈の主張を根拠にしているのが、旧ソ連、ひいては現・ロシアなのです。最後に、戦後、日本が領有権を放棄した南樺太と北千島についても書いてみたいと思います。

『サンフランシスコ平和条約』によって、日本は南樺太と北千島に対する領有権を放棄しました。それに対して、戦後、同地域を領有した旧ソ連には、どの様な「領有の根拠」があるのでしょうか? 厳密に言うと、同地域に対する「領有権」を旧ソ連は持っていません。例えば、旧ソ連は、『サンフランシスコ平和条約』には調印していません。つまり、旧ソ連は、同条約の「当事国」で無いと同時に、同条約に明記されている、「日本の南樺太・北千島に対する領有権放棄」についても、承認してはいないと言う事になってしまうのです。(と言う事は、逆説的に考えれば、南樺太・千島全島は今でも日本に帰属する事になる) 又、同条約には、日本が南樺太・北千島に対する領有権を放棄する事は明記されていますが、日本によって領有権が放棄された同地域が旧ソ連に譲渡編入される等と言う事は一言も書かれてはいません。繰り返しますが、あくまでも「領有権の放棄」しか書かれてはいません。つまり、国際法的には、旧ソ連が同地域を領有する根拠は何一つ無いと言う事になり、それは同時に、「北方領土」は元より南樺太・北千島をも不当に占有していると言う事になる訳です。

(了)


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