Reconsideration of the History
39.アジア解放の端緒〜日露戦争の歴史的意義 (1998.10.7)

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治38(1905)年5月28日、「世界最強」と謳(うた)われたロシア・バルチック艦隊は、東郷平八郎元帥率いる日本・連合艦隊によって完膚無きまでに叩きつぶされました。世に「日本海海戦」と呼ばれる日露戦争(1904〜1905)のクライマックスです。ここに日清戦争に続いた大戦争・日露戦争の雌雄は決したのです。しかし、日本にとって「皇国の興廃」(日本の存立)を賭けた大戦争は、単に日本とロシアの−極東での一戦争ではなかったのです。と言う訳で、今回は日露戦争のもう一つの側面に光を当ててみたいと思います。

日本海海戦に臨む日本連合艦隊
▲ 日本海海戦に臨む日本連合艦隊

露戦争における「日本の勝利」がもたらしたもの。これを知る事で、日露戦争の真の「歴史的意義」が見えてきます。その第一の鍵は、日露戦争に対する海外−とりわけアジア諸国の論評です。

『日本の日露戦争での勝利は、「アジアは泰西文明(欧米文明)に達する資格なし」とする欧米諸国の偏見を無効にした点で、同じアジアの一員たる自分達を勇気づけた。 (中略) 日本先帝陛下(明治天皇)は露国(ロシア)を撃破したる後、アジア全般に立憲思想を普及せられたるが、日本の立憲政体に倣(なら)いたる最初の帝国は波斯(ペルシア)にして、土耳其(オスマン-トルコ)、之に次ぎ、清国は最後に日本の顰(ひそみ)に倣いたり。抑(そもそ)も波斯、土耳其、及び清国の三帝国は終始露国の圧迫威嚇の下にあり (以後略)

(ペルシア・『ハブラル-マタン』紙 1912(大正1)年8月15日付)

上記は明治天皇崩御に際して、ペルシア(現イラン)の新聞が掲載した論評ですが、この他にも、トルコ・エジプト・フィンランド・バルト三国等、西洋の植民地化の下−とりわけロシア帝国の脅威にあった諸国は、日露戦争での「日本の勝利」に歓喜し拍手喝采を送ったのです。そして、その「歴史的意義」こそ、

「白人国家 VS 非白人国家」での非白人国家の最初の勝利

だったのです。それでは、日露戦争での「日本の勝利」は、その後のアジア諸国にどの様な影響を及ぼしたのでしょうか? 次にこの点について見てみましょう。

東郷平八郎 アミラリ(トーゴー・ビール) れまで、欧米列強に蚕蝕されていたアジア・アフリカ諸国は、

「自分達がどう転んだ所で、欧米列強には敵(かな)いっこない」

と諦(あきら)めていました。そこへ、極東の新興国(ニューパワー)・日本が、欧米列強の一大国・ロシアに勝利したと言うビッグ・ニュースが飛び込んだのです。このニュースによって、日本はアジア・アフリカ諸国の「希望の星」になったと同時に、それまで欧米列強には敵わないと諦めていたアジア・アフリカ諸国に「独立」と言う希望を抱かせたのです。又、日露戦争での「日本の勝利」−そのリーダーである「明治天皇」は、第三世界に強烈なインパクトを残し(東郷元帥(左写真)もフィンランドの「トーゴー・ビール」(右写真)の名に使われている)、第三世界に次々と新たなリーダーを輩出させたのです。

「ポスト明治天皇」を自負した第三世界の指導者達

ケマル・アタテュルク Mustafa Kemal Ataturk(1881-1938)
近代トルコの父にして、トルコ共和国初代大統領(在職 1923-1938)。日露戦争での「日本の勝利」に感化され、トルコを前近代的なスルタン-カリフ制(帝制)から共和制へと移行、トルコの近代化を推進し、「アタテュルク」(父なるトルコ人=国父)の称号を贈られた。トルコは親日国で、明治天皇と東郷平八郎元帥は、トルコ国内でもヒーローとして有名。

ナーセル Jamal‘Abd al-Nasir(1918-1970)
エジプトの軍人・大統領(在職 1956-1970)。中学生時代、反英デモ(1934-1936)に参加し、民族主義に共鳴。1952年、軍事クーデターで腐敗したファルーク王制を打倒(7月革命)し、ナギーブ初代大統領失脚後、大統領となる。この間、スエズ運河を封鎖し、旧宗主国であるイギリス勢力をエジプトから一掃し、エジプトをアラブ世界の盟主へと押し上げた。彼も「日露戦争における(日本の)勝利は自分の人格形成に大きな影響を与えた」と語っている。

サッダーム・フセイン Saddam Husayn al-Takriti(1937-)
現イラク大統領(在職 1979-)で、言わずと知れた湾岸戦争の一方の立役者。その性格(独裁者)ゆえか、新バビロニアの王になぞって「ネブカドネザル3世」と揶揄される。湾岸危機当時、日本が派遣した特使に対して、「かつて白人勢力に抵抗した日本が、なぜ、今回はアメリカ側につくのか?」と発言したと言われている。ちなみに、湾岸戦争の原因となったイラクとクウェートの国境線(領土)問題は、イギリスからの独立時に、イギリス等欧米列強によって「勝手」に線引きされたもので、そう言う意味で湾岸戦争の遠因は、イギリス等欧米列強にあった共言える。現在も問題となっているイスラエルとパレスチナ(及びアラブ)の対立問題も本質はこれと同じ。

以上の様に、日露戦争における「日本の勝利」は日本と言う一新興国の勝利ではなかったのです。この大戦争における「日本の勝利」によって、欧米列強の植民地化や搾取・圧政に苦しんでいたアジア・アフリカ諸国は日本に感化され、それぞれ「独立」への道(独立闘争)を歩みだしたのです。そう言う意味で、大東亜戦争(太平洋戦争)が「東アジア解放戦争」だったとすれば、日露戦争とは「西アジア・アフリカ解放前哨戦」だったと言えるのです。

参考文献


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