Reconsideration of the History
108.「中華民国」は清朝の後継国家では無い (2002.11.7)

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1911(清の宣統2・明治45)年の武昌蜂起に始まった辛亥革命は支那全土に波及し、翌1912(清の宣統3・明治45)年1月1日、孫文が臨時大総統(大統領)に就任、ここに曲がりなりにも「中華民国」が成立したのです。しかし、成立したとは言え、清朝が崩壊した訳では無く、かといって、民国政府も発足したとは言え全土を掌握する実力がある訳でも無く、情勢は混沌としたままだったのです。この様な中、時の実力者・袁世凱が清朝・民国政府両者を仲介、「ある条件」を以て宣統帝・溥儀 ── ラストエンペラーの「退位」を引き出し、同年2月20日、宣統帝が「退位」、約300年続いた清朝が「滅亡」したのです。と、ここ迄は、皆さんもご存じの歴史だと思います。そして、皆さんは、清朝の滅亡により、「後継国家」としての中華民国が成立したと認識されている事と思います。しかし、実際にはそうでは無かったのです。ズバリ言えば、中華民国は清朝の「後継国家」等では無かったのです。と言う訳で、今回は、宣統帝退位に伴った「ある条件」を軸にこの問題について書いてみたいと思います。

統帝・溥儀の退位に伴った「ある条件」とは一体何だったのか? それは、一般に『退位協定』と呼ばれるもので、その中に清朝にとっての各種優待条件があったからこそ、清朝 ── 宣統帝が「退位」を受諾した訳です。そして、その『退位協定』とはこの様なものだったのです。

中華民国政府が清朝と締結した『退位協定』(抜粋)

  1. 大清皇帝(宣統帝・溥儀)は辞位(退位)後も皇帝の尊号を廃止せず、中華民国(支那共和国)は外国君主に対する礼を以てこれを待遇する。
  2. 大清皇帝は年金として毎年400万両(テール)を中華民国より受領する。
  3. 大清皇帝は暫時、紫禁城内に居住し、後日、頤和園に移住する。
  4. 大清皇帝の宗廟・陵(墓所)は永遠に奉祀し、中華民国はこれを慎重に保護する。
  5. 先帝・徳宗景皇帝(光緒帝)陵の工事は予定通り続行する。その奉安の儀式も旧制のままとする。
  6. 紫禁城内の各職員は従来通り使用出来る。但し太監(宦官)は今後採用出来ない。
  7. 大清皇帝の私有財産は中華民国が特別に保護する。
  8. 禁衛軍(皇帝守備軍)は中華民国陸軍部の編成下に置かれる。
『退位協定』には、この他、清朝皇族・満州・モンゴル・ウイグル・チベット各民族に対する優待条件等も規定されていましたが、やはり核心は、宣統帝・溥儀に対する処遇であった事は確かです。

那王朝史上、幾多の皇帝・王がその地位を失い、玉座から引きずり下ろされてきました。所謂(いわゆる)「廃位」です。そして、「廃位」された皇帝は「廃帝」(但し、王朝最後の皇帝は「献帝」・「哀帝」・「末帝」等、諡号(おくりな)は様々)と呼ばれ、自殺した者、殺害された者も多く、縦(よ)しんば生き長らえたとしても、「庶人」(平民)の地位に落とされ、惨(みじ)めな生活を送る事となった者も数多くいました。しかし、溥儀は確かに「ラストエンペラー」ではありましたが、決して「廃帝」では無かったのです。溥儀は形式上、中華民国政府によって「放伐」(支那人の易姓革命観に基づくもので、徳を失った皇帝を討伐して放逐する事)されたのでは無く、「禅譲」(皇帝が帝位を世襲せずに徳の有る者に譲る事)した事になっていました。溥儀が無理矢理、帝位から引きずり下ろされたのならば、「廃帝」と言う事になる訳ですが、彼は禅譲した事になっているので「遜帝」(そんてい:帝位を譲った元皇帝)と呼ばれていました。そして、「遜帝」であった証拠が、『退位協定』における

大清皇帝(宣統帝・溥儀)は辞位(退位)後も皇帝の尊号を廃止せず、中華民国(支那共和国)は外国君主に対する礼を以てこれを待遇する。
だった訳で、退位後も皇帝の尊号を名乗る事が許され、「皇居」(紫禁城)に住み続け、高額の年金を支給され、側近等の使用人もそのまま使い続ける生活をも保障されたのです。つまり、中華民国政府にとって溥儀は、新政府に「禅譲」した「先帝陛下」だったと言う事になり、その視点に立てば、中華民国は正に清朝の「後継国家」と言う事が出来る訳です。しかし、敢えて言います。それでも中華民国は清朝の「後継国家」では無かったと。では何故、中華民国が清朝の「後継国家」では無いのか? その答えはその後の歴史が図らずも証明しているのです。

『退位協定』締結から僅か2年後の1914(大正3)年2月、清朝と中華民国政府を仲介し、『退位協定』の締結に深く関与した袁世凱 ── この時、中華民国大総統の地位にあったのですが ── 彼の公布した大総統令

大清皇帝(溥儀)は本日を以て永久に皇帝の尊号を廃除し、中華民国の一国民として法律上一切の権利を同等に享有する。
によって、いとも簡単に反古にされてしまったのです。つまり、大総統令は「遜帝」或(ある)いは「先帝」である溥儀を、「中華民国の一国民」=「庶人」に落とすと宣言しているのです。(満蒙皇族についても同様) しかも、溥儀等に何らの相談も無く一方的にです。『退位協定』はれっきとした契約であり、契約と言うものが当事者間の交渉で改定・廃棄される事を考えると、これは、明らかな「契約違反」と言える行為です。溥儀等からすれば到底受け入れる事等出来よう筈が無く、彼等は民国政府による一方的な協定変更を認めず、『退位協定』を盾に従前同様の生活を続けたのです。しかし、溥儀等の抵抗も長くは続きませんでした。

国政府側は、『退位協定』の一方的な改定後、更に輪をかける様な行為を繰り返しました。1924(大正13)年10月23日、時の権力者・呉佩孚の部下だった馮玉祥がクーデター(北京政変)を起こし首都・北京を占領、呉佩孚の追放に成功すると、同年11月5日、馮玉祥は軍兵を紫禁城に差し向け、溥儀等を紫禁城から追放したのです。(溥儀等は、天津租界の日本公使館に保護された) しかし、事はそれだけでは済みませんでした。民国政府は、主人(溥儀)を失った紫禁城から皇室の財産を悉(ことごと)く没収し、財宝の掠奪を欲しいままにしたのです。そして、更には、あろう事か、西太后を始めとする清朝歴代諸帝の御陵に迄、軍兵を差し向けて盗掘し、副葬品として埋葬されていた財宝迄をも掠奪、それらを売却して内戦の軍費に充当したのです。

て、話を、中華民国が清朝の「後継国家」であったか否かに戻しましょう。ここ迄見てきた様に、中華民国が清朝との間に「退位協定」を締結し、宣統帝・溥儀から「禅譲」と言う形で政権を移譲された事は確かです。しかし、その後、一方的に『退位協定』を改定、協定に明記されていた各種条項を悉く破棄し、財産没収・財宝掠奪等の暴挙を働いたのも事実です。つまり、見方を変えれば、中華民国は清朝から「禅譲」された政権の「正統性」を自ら放棄した ── 「後継国家」としての地位を擲(なげう)ったと言え、それは図らずも、清朝歴代諸帝御陵に対する盗掘が、何よりも証明しているのです。


   余談(つれづれ)

「遜帝」溥儀が、民国政府による『退位協定』の一方的な改定・破棄によって「廃帝」にされ、更には紫禁城を逐われて、天津租界の日本公使館に保護されたのは前述の通りです。その後、関東軍によって父祖発祥の地である満州に迎えられ、「後清」共言える「満州国」の皇帝に返り咲いたのは周知の事実です。しかし、もしも、民国政府が『退位協定』を一方的に改定・破棄する事無く、「遜帝」溥儀を始めとする清朝・満蒙皇族の身分を保障し、満蒙・ウイグル・チベット各民族に対する優待条件を遵守尊重していたとしたら・・・溥儀がわざわざ「満州国」の皇帝になる必要も無かったでしょうし、或いは非漢民族による支那国内の分離独立運動も起きなかったかも知れません。その意味では、その後の「歴史」は支那(民国政府)自身が招来した事共言えるのです。(了)



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