Reconsideration of the History
82.日本は「中国侵略」等していない!! (2000.11.22)

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和12(1937)年7月7日の「廬溝橋事件」から、昭和20年8月15日の終戦迄、実に8年間の長期にわたって続いた「日中戦争」(支那事変・日華事変)。この「日中戦争」を、支那は日本軍国主義による「中国侵略」だと主張し、日本の歴代政権に対して、繰り返し「過去の戦争責任」の追求と、「正しい歴史認識」の強要をしてきました。しかし、前回のコラム『81.仕掛けられた「日中戦争」 ── 廬溝橋事件の真実』でも書いた通り、日本に事を構えさせる様、し向けたのは、現在、「中華人民共和国」として支那の政権を握っている支那共産党だったのです。つまり、日本側には最初から「中国侵略」等と言う野望は無かった訳です。その証拠に、「廬溝橋事件」発生後間もなくして、日本軍は、事件不拡大方針を表明し、事態の沈静・終息化を願っていました。早い話これは、日本側として、これ以上、国民党軍と事を構えたくは無い。支那との全面戦争等欲してはいない、と言う事だったのです。しかし、こう書いても、左翼・反日勢力は、「当時、日本軍が支那に「駐留」していたではないか? 「侵略」する気がなかったのなら、何故、駐留していたのか?」と言うでしょう。お説、ごもっとも。しかし、敢えて言います。日本軍の支那駐留と、「日中戦争」とには、何ら直接的関係がなかったと。と言う訳で、今回は、日本軍の支那駐留を軸に、「中国侵略」の虚構について書いてみたいと思います。

ず、最初に書いておきたい事があります。それは、日本軍の支那進駐をもって、「中国侵略」の証拠とする事は出来ないと言う事です。当時、確かに日本軍は支那に駐留していました。しかし、「侵略」したのでは決してなかったのです。日本軍が支那に最初に進駐したのは、明治33(1900)年、「義和団事件」発生の時でした。1月22日、列国公使団が、清国政府に対して、暴徒・匪賊の集まりであった「義和団」の鎮圧を要求したのですが、この機会に、列強勢力を支那から駆逐したいと考えていた西太后ら保守派は、逆に「義和団」を支持したのです。4月22日、西太后の支援で「義和団」が、首都・北京に入城すると、北京の治安は急速に悪化し、社会は混乱に陥りました。更に、外国人(列強諸国の居留民)排斥を唱えて、列強公使館に「進軍」する状況に、5月31日、居留民保護と治安回復を目的に、英・仏・米・露・独・伊・墺(オーストリア)・日本からなる八ヶ国連合軍が北京に出兵したのです。つまり、八ヶ国連合軍の一員として、日本軍は進駐したのであり、そもそも「侵略」を意図したもの等では無かった訳です。その後、義和団を鎮圧し、北京に入城した日本軍は、軍規(軍隊の規律)に厳しく、上は司令官から下は一兵卒に至る迄、秩序が維持され、市民からの略奪等もせず、ひたすら治安の維持回復に努めた事から、北京市民からも非常に信頼され、「大日本順民」(「日本に順(したが)う市民」の義)と書かれた紙や布を振られて「歓迎」されたのです。又、事件後、北京駐在武官だった柴五郎・陸軍中佐(通称、「コロネル・シバ」)が、清国政府の要請で「軍事衙門長官」(列強駐留軍総司令官) ── 八ヶ国連合軍の最高司令官に就任、北京の治安維持に尽力していたのも事実です。もし、「侵略」を意図した進駐だったとしたら、北京市民が日本軍を「歓迎」したでしょうか? そして、清国政府が列強駐留軍総司令官に日本軍人を推挙・就任させたでしょうか? この事実は、日本軍の進駐が決して「侵略」を意図したものではなかった事を証明すると共に、当時の北京市民が日本軍を「歓迎」こそすれ、決して憎んではいなかった事をも意味しているのです。

かし、これでも、左翼・反日勢力は、「そんな昔の事では無く、日中戦争勃発直前の日本軍駐留を問題にしているのだ!!」と言う事でしょう。それについても、残念ながら、彼らの主張は的外れと言わざるを得ません。確かに「日中戦争」開戦前夜、日本軍は支那各地に駐留していました。これは事実です。しかし、日本軍の駐留は主として、支那各地に設けられていた共同「租界」の中だったのです。

界。支那の開港都市(オープン・シティ)で、外国人がその居留地区の行政・警察権を管理する組織及びその地域の事を言い、1845年、清国政府承認の下、イギリスが上海に設置したのを皮切りに、一時はその数が八ヵ国27ヵ所にも及びました。その数ある租界の中の日本管理地区 ── 「日本租界」に居留する日本人や日本企業の警護 ── 在留邦人保護を目的として、支那政府承認の下、必要最低限の軍隊を駐留させていた訳です。「必要最低限」と書いた通り、到底、全面戦争・「侵略戦争」を出来る程の戦力等、日本軍は駐留させてはいなかったのです。これは現在、日本政府によって、駐留を認められている在日米軍と何ら変わりがありません。つまり、租界への駐留も又、「侵略」を意図するものではなかった訳です。

なみに、日本が支那と戦った戦争を、よく「日中戦争」・「日中戦争」と言いますが、当時の日本は、一度たり共、「日中戦争」等とは言っていません。「日中戦争」と呼ばれる戦争は、正しくは「支那事変」あるいは「日華事変」と呼ばれ、「戦争」ではなく、あくまでも「事変」だったのです。では、「事変」とは一体何なのかと言うと、

「警察力では鎮定し得ない程度の擾乱(じょうらん:「乱れ騒ぐ事」の義)。国際間の宣戦布告なき戦争」
の事を言い、明確な宣戦布告や戦争方針が無いまま、ずるずると戦線を拡大せざるを得なかった当時の日本側の状況を、如実に現しているのです。更に言えば、当時の支那は、蒋介石の国民党政権(実際には、離合集散を繰り返していたが)と、毛沢東の共産党政権が支配権を争う事実上の「内戦状態」で、到底、統一国家としての体をなしてはいませんでした。つまり、国際的に「中華民国」として認知されていた支那は、蓋を開ければ、てんでバラバラに軍閥やら地方政権が乱立し、誰が「中華民国」を代表する主権者なのかも分からない様な状態だった訳です。その「中国」(統一国家を前提とした「中華民国」の略)と日本が、「事変」ではなく「戦争」をしていた・・・等とは、左翼・反日勢力の「歴史」に対する認識不足も甚だしいと言わざるを得ません。


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